文学に関するコラム「ゆとうや」に訪れた代表的な歌人・文人にまつわるエピソード
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ゆとうや文学シリーズ
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松瀬 青々 1869-1937 ゆとうや文学シリーズ3
 大阪市生まれ、明治から昭和にかけての俳人。正岡子規に師事し、東京にて「ホトトギス」の編集に従事するが、「東京には、芸術としての文化、文化人を誇る文化はあるが、草木や土や人間を愛するじゅくじゅくたる文化、生活文化がない。東京は、文化のための生活が存在し、大阪は、生活のための文化がある。文化のありどころがちがう」と感じ、後帰阪して朝日新聞社に入社「朝日俳壇」の選者となり活躍する。俳誌「倦鳥(けんちょう)」を主宰し、東の子規、西の青々とうたわれ、関西俳壇に重きをなす。
大正から昭和にかけて再三城崎に来遊している。

松瀬 青々 俳句

松瀬青々誕生の地
大阪市北区北浜、住友銀行東玄関前にある
松瀬青々誕生の地
ゆとうやミニギャラリー
ゆとうやミニギャラリーに展示の青々の作品の一部
青々の句碑
ゆとうや庭園にある
青々の句碑
 但馬にも「但馬倦鳥句会」があり、ゆとうや十二代当主、西村方壷が同句会の会員でもあったので、青々も度々但馬に来て「城崎句会」をゆとうや旅館にて開催している。青々の世界、その中における但馬倦鳥句会のこと、城崎ゆとうやでの集いなどは、但馬・関宮の俳人、北村南朝著の俳句随筆「風韻水語」によく著されているので、一部を引用し紹介する。

〈 北村南朝著「風韻水語」城崎夜情より 〉

 私は、それ以前に、植村万頃(出石出身で、城崎に在住した俳人)に倦鳥句会のよさを語られ、その頃投句していたホトトギス俳句を批判されたし、中学時代京都で出席したホトトギスの句会における高浜虚子やその周辺の人たちの、大仰な、時代もの歌舞伎のような差別感を思わせる俳句の会というものにいささか失望していた矢先でもあり、出石で初対面の青々という人の庶民的態度、新米の青二才の私たちと、さながら友人と対談するような親しさに、・・・その人間性に惹かれていた。

ゆとうやでの夜会は、京都で座に連らなったホトトギスの会のような盛大なものとは対照的、せいぜい二十人そこそこではあったが、かの一題制限の題詠を主としたものではなく、席上に書き並べた季題のほかに、例えば「恋」とか「女」とか「いで湯」など無季のものにも及び、自由で、出句数にも多くは制限なく、随意で、作者は存分に、いで湯情緒に浸れるものだった。季から句を探すのではなく、情趣から季題を求めるような俳句の世界を摘出する方法も加味されて、詩材は無限で、豊富であった。深夜に及ぶ句疲れにまどろむと湯に入って更に二回、三回と続くと、夜の明けることもあった。


〈 青々の文学碑 〉
 青々の句碑は、昭和6年、西村方壷により「ゆとうや旅館」の庭内に建立された。
碑石の選定には青々自身も玄武洞まで同行し石を選び、それに合わせて揮毫している。
    一の湯の上に眺むる花の雨    青々



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